(顧問 水谷美紀の食エッセイ)食べたら書きたくなって 第8回「マイ・ファニー・チョコレートメモリー」
(水谷美紀の食エッセイ)
水谷美紀の食エッセイ〜食べたら書きたくなって〜
第8回は、チョコレートのお話。
どうしてこんなにチョコレートを好きになってしまったのだろう。いや、きっかけはちゃんとわかっている。それは紛れもなく父の……「せい」と書くべきか「おかげ」と書くべきか……とにかく発端は父なのだ。
わたしが小学校に入った頃から父は、たまにメリーの「チョコレートミックス」をお土産に買ってきてくれるようになった。今も販売している袋詰めのアソートである。
当時(1970年代)、日本に進出している海外のチョコレートブランドはまだ少なく、国内メーカーでありながら日本で初めて百貨店でバレンタインフェアをおこなったメリー(※)はチョコレートブランドとして目立つ存在だった。
(※)メリーのバレンタインヒストリー
チョコレートだけでなくクッキーやジャンドゥヤ、クランチ、キャラメルなどが入ったチョコレートミックスは求めやすいこのブランドのなかでもより廉価な商品だが、我が家にとっては十分に贅沢品だった。年子である下の兄とひと袋ずつ渡されると、比喩でなく本当に小躍りして喜んだ。ひとつひとつ違いを楽しみながら食べる時間は至福といってよく、特に、純正のチョコレートを食べるときは噛まずにそっと舌にのせ、ゆっくり溶かして味わった。
こらえ性がなく、いつも2日後には食べきってしまうわたしに対し、計画性のある兄は1日にひとつかせいぜいふたつしか食べず、10日くらい持たせていた。そのため3日後には「お兄ちゃん〜1個ちょうだい〜」と懇願しては、兄に「なんでや。同じのもろたやろ」と冷たく断られるのもお約束だった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
ちょうどその頃、我が家にひとつ新しいルールができた。それは母が考えたもので、「前の晩どれだけお父さんとケンカしても、翌朝に蒸し返さないこと」というものだった。
我が家はよく言えば風通しの良い家庭だったので、父と娘もポンポン対等に言い合い、しょっちゅうヒートアップしていた。それでこのようなルールが生まれたのだ。
銀行員だった父は転勤が多く、支店によっては車で通勤することもあったので、朝に言い争いをしたことで「お父さんがイライラしたまま運転して、事故でも起こしたらどうするの」ということだった。ただ、一方的に我慢しろと言わないのが母の良いところで、「ケンカの続きがしたかったら、1日が始まる朝ではなく、夜、お父さんが帰ってきてからやりなさい」と代替案も提示してくれた。
交通事故の可能性をチラつかされては、さすがに従うしかない。わたしは仕方なく父と「おはよう」の挨拶を交わし(ブスッとして挨拶をしないというのも厳禁だった)、言葉少なに登校するのが常だった。ただし心の中では「よーし、続きは夜だ。お父さん、待ってろよ」と、闘志を燃やしていた。
ところが脳のメモリー量の問題か、わたしは学校に着いた瞬間に、父とケンカしたことも、帰ったらケンカの続きをしようと思っていたことも、なぜか毎回すっかり忘れてしまうのだった。それどころか帰宅してお風呂に入る頃には「いや〜今日も楽しかったな〜」などと、ゴキゲンにすらなっている。ただのアホとも言えるが、性格なので仕方ない。
そこにちょうど、父が帰ってくるのだ。そしてその手には必ず、あのチョコレートミックスが……。
それは間違いなく娘の機嫌をとるためのお土産なのだが、何もかも忘れてしまっている娘にとって、もはやそれはただただ嬉しいサプライズ。買ってきた理由を考えることもなく、「うわー、お父さん、ありがとう! おにいちゃーん!」と兄を呼び、小躍りが始まる。そういえば記憶の限り、ケンカの続きが翌日行われたことは、一度もない。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
あれから数十年。令和5年の現在、日本はおいしいチョコレートにあふれた世界屈指のチョコ大国になった。特にバレンタインの時期にはサロン・ドゥ・ショコラを筆頭に、世界中から高級チョコレートが集まってくる。国内ブランドも、スーパーやコンビニで買える手軽なチョコレートも、どんどん質が向上している。思い出のメリーも近年、可愛いパッケージの新しいブランドがいくつも誕生して大人気である。往年のファンとしては嬉しい限りだ。
そしてわたしはというと、チョコレートを前にした瞬間、細かいことは忘れて上機嫌になってしまうところは子供の頃のまま。これは間違いなくあの日々の賜物だろう。今年もバレンタインデーには、わたしを幸福なチョコレートジャンキーにしてくれた感謝を込めて、亡き父にチョコレートを贈ろうと思う。
顧問 水谷美紀先生のフェイスブック
詳細はこちら
顧問 水谷美紀先生のtwitter
詳細はこちら
今までのコラム
第7回『いちご畑をもう一度 いちごの思い出』
第6回チャイニーズ・シェフ・ゴー・フィンランド 映画『世界で一番しあわせな食堂』
第5回『幸せは牡蠣で 気仙沼・唐桑の牡蠣』
第4回『すき焼きラプソディ 牛肉と鍋の産地に生まれて』
第3回『歳神様は鏡餅がお好き』
第2回出汁にかける少女・映画『みをつくし料理帖』
第1回『おにぎりところどころ』