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    (顧問 水谷美紀の食エッセイ)第4回『すき焼きラプソディ 牛肉と鍋の産地に生まれて』

    (すき焼き)

    顧問 水谷美紀さんの食エッセイ。
    今週末はすき焼きかな〜。第4回『すき焼きラプソディ 牛肉と鍋の産地に生まれて』

    (顧問 水谷美紀の食エッセイ)第4回『すき焼きラプソディ 牛肉と鍋の産地に生まれて』
    生まれ育った国や地域によって、食文化は実にさまざまだ。とくに東京に住んでいると色々な国や地方出身の人に遭遇するので、自分の知らない食習慣や郷土料理に出会って驚くことも少なくない。

    自分が人に対して驚いたように、三重県出身のわたし自身もこれまでたびたび人を驚かせてきた。上京して最初に驚かれたのは、すき焼き鍋だった。

    それは初めてできた東京出身の友達がアパートに遊びに来たときのこと。台所に大きなすき焼き鍋があるのを見て、彼女は「ひとり暮らしなのに、どうしてこんな物があるの?」と、とても驚いた。実はそこにはたこ焼き器もあったのだけど、そちらは想定の範囲内だったらしく、何も触れられなかった。すき焼き鍋のほうがずっと奇異に映ったらしい。

    わたしはわたしで、彼女が驚いたことに驚いた。自分にとってすき焼きはあまりにも日常的な料理だったので、ひとり暮らしになってもきっとすぐに使うだろうと思い、故郷でわざわざ購入して持って来ていたのだ。

    ところが彼女は「東京の人間はすき焼きなんて滅多に食べない」「すき焼き鍋が家にあるほうが珍しい」と言う。そこにはかなり誇張があっただろうと今も信じているけれど、すき焼きが故郷ほどポピュラーな食べ物ではないというのは、どうやら本当のようだった。食のカルチャーギャップを初めて感じた瞬間だった。

    * ****

    故郷は古くからハマグリをはじめとした貝の産地として知られていたが、同時に牛肉と、すき焼き鍋など鋳物の街としても栄えてきたため、家庭ですき焼きを本当によく食べる。子供の頃はお祝いや記念日、来客時、家族の集まり、祝日や休日というと、お寿司かすき焼きかで、冬だとほぼすき焼き一択だった。祝い事がなくても、単に食べたいという理由ですき焼きになることもしばしばだった。

    我が家の場合だいたいは高級肉ではなく、いわばその切れはしの並肉だったし、子供が3人もいたので、小さい頃は大きな花麩やソーセージ(!)など、水分が出ない野菜や味が合う具材なら何でも投入され、思い切りかさ増しされていた。一般的なすき焼きのイメージ=贅沢なご馳走とはかなり違い、頻繁に食べるお気に入り料理という位置づけなのだ。

    街全体が同じ感覚なので、年末になると老舗の精肉店に行列ができるのも昔からの見慣れた光景だ。もちろんお正月に家族ですき焼きを食べるためである。人気なので肉は大晦日まで残らず、毎年12月28日には完売する。昨年末はコロナによる巣篭もり需要の影響か、27日には完売していたらしい。もちろん我が家も毎年三ヶ日のうちに必ず一度は食べている。そんな環境で育ったため、近所の神社にある菅原道真ゆかりの神牛像のことも、実はつい最近まで食肉用に殺された牛供養の像だと思い込んでいたくらいだ。

    ******

    日本文化に魅了されたフランスの哲学者ロラン・バルトは、一度に具を入れて煮込む関東式ではなく、少量ずつ肉と野菜を焼き、食べ終わったらまた一から作る関西式のすき焼きを珍しがり、著書のなかで「すき焼きは中心のない料理だ」「すき焼きには終わりがない」※と書いている。
    ※ ロラン・バルト著作集7『記号の国』(みすず書房)

    終わりのない料理と言ってもバルトはきっと名店で食べただろうから、家庭で食べるすき焼きの、本当の「終わりのなさ」は未経験だろう。例えば子供の頃の我が家だと、あらかた食べたらうどんが投入されてすき焼きうどんになり、それを白いご飯で食べる。翌日の朝食はその残りを食べ、さらにその日のお弁当のおかずは、100%(ほぼ、ではなく完全に)前夜うどん投入前に取り分けておいたすき焼きだった。といっても残り物をしぶしぶではなく、毎回とても楽しみだった。

    できればここまでをぜひバルトに味わっていただきたかった。短いもののすき焼きだけで一章書いているところを見ると、きっと口に合ったのだろうから。

    そんな風にフランスの哲学者も惹きつけたすき焼きだけど、東京に長く住んでいると「すき焼きなんて、甘くて嫌いだ」と言う人にも遭遇する。故郷ですき焼きを嫌う人などいなかったので最初はかなり動揺した(作り方を間違えているのでは?と本気で思った)。しかも「嫌い」とまで言われると、自分や故郷を頭ごなしに否定されたような気がして、若い頃は軽く落ち込んだりもした。

    ところがわたし自身も実は甘い和食が得意ではなく、自分で料理をするときもなるべく砂糖を使わないようにしているので、甘い味つけを嫌う人の気持ちが本当はわかる側の人間なのだけど、すき焼きだけは別で、大好きなのだ。故郷を出て、そして否定されて初めて気づいたけれど、すき焼きはわたしのソウルフードだったのだ。

    ソウルフードとは本来、アメリカ南部に伝わるアフリカ系移民の伝統料理のことを指すが、近年は自分の故郷に根付いた料理、小さい頃から食べてきた愛着ある郷土料理のこともソウルフードと呼ぶようになっている。牛肉の産地生まれであるわたしにとってすき焼きは、間違いなくソウルフードのひとつと言えるだろう。

    * ****

    近年、大豆などを使った代用肉の価値が見直され、肉大好きなわたしも肉を食べない日を設ける努力をしている(まったく出来ていないが)。一方で肉は良質なアミノ酸やビタミンを豊富に含んでおり、味だけでなく栄養面からも、優秀な食べ物であることは間違いない。

    特に牛肉はうつ病の予防や脳を健康に保つ働きをするセロトニンの元となるアミノ酸の一種トリプトファンや、貧血や鉄分不足を補うヘム鉄の含有量が他の肉より多い。そんな牛肉とともに野菜もたくさん摂れるすき焼きは、このコロナ下にあって心も体も元気になれるおすすめの料理ではないだろうか。

    折しも今年は丑年。干支にちなんで縁起担ぎに牛肉を食べる人も多いという。前述したように、牛は学問の神様である菅原道真のお使いでもあるので、学生や受験生にとってさらに験がいい。

    2月も後半になり、そろそろ受験シーズンも終盤だが、紅白の美しい霜降り肉がめでたいすき焼きは、合格祝いはもちろん、結果に関係なく受験生とその家族全員の頑張りをねぎらう食事としてもぴったりだ。賛否両論ある(?)あの甘みが、いつも以上に疲れを癒してくれるだろう。我がソウルフード・すき焼きには、団欒や笑顔が似合うのだ。


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